猫が詠まれた俳句を紹介!「猫の恋」っていつの季語?
猫を題材にした俳句は、すでに江戸時代からたくさんあります。猫が季節を表す言葉「季語」にもなっているほどです。
そこで今回は、俳人協会会員でもある筆者が「季語としての猫」や「猫が詠まれている俳句」を紹介、解説します。五七五というわずか17音の文学に、猫はどのように詠まれているでしょうか。
季語になっている猫とは?
春の季語には「猫の恋」「子猫」、冬の季語としては、「炬燵(こたつ)猫」などがあります。
猫の行動や習性が季節を表す季語になっており、猫を飼っている人にとっては「あるある」と共感できる内容も多いかもしません。
それぞれ詳しく見ていきましょう。
春の季語「猫の恋」「子猫」
「猫の恋」とは?
「猫の恋」は、発情した猫たちを表す季語です。「猫の恋」以外にも、副季語として「恋猫」や「春の猫」「猫の妻」「猫さかる」などもあります。副季語は、状況や文字数などで使用する「サブの季語」と言えばわかりやすいでしょう。猫の恋を使った俳句を紹介します。
寝て起きて大欠伸(おおあくび)して猫の恋 小林一茶(こばやし いっさ)
勝手気ままに生きている猫の生態がよくわかる俳句ですね。好きなときに寝て、起きてあくびをしたら好みのメス猫のところに行くのでしょう。
小林一茶は、宝暦13年(1763年)生まれの俳人です。猫が自由気ままなところは、江戸時代から変わっていないことがわかります。
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣(ながた こうい)
恋猫が、「恋する猫」として自分を押し通しているという句。ご飯にも目もくれず、おそらく水もろくに飲まないでいるのでしょう。普段なら撫でられてうっとりする猫も、発情期は気が立っているはずです。「押し通す」に猫の強さが伝わってきます。
永田耕衣は、明治33年(1900年)兵庫県生まれの俳人です。
「子猫」も春の季語
春にたくさん生まれる子猫も季語になっています。子猫の句は、どれもほのぼのしているのが特徴です。副季語は「猫の子」のほかに「猫の親」「猫の産」などがあります。
猫の子が腋(わき)の下にて熟睡す 日野草城(ひの そうじょう)
子猫から飼った経験のある人なら、誰もが共感するのではないでしょうか。わきの下に入り込んでぐっすり眠る子猫に、1ミリも動けないような状況ですね。
シンプルに子猫の状況を詠んでいるようでいて、熟睡する姿をいとおしく思う気持ちが込められています。詠むだけで子猫の体温も感じるのではないでしょうか。
日野草城は、明治34年(1901年)東京上野に生まれた俳人です。猫が好きだったのか、次のような俳句も作っています。
子猫ねむしつかみ上げられても眠る
子猫は眠すぎて、人がつかんで持ち上げてもそのまま寝ていたようです。なんともかわいい様子ですね。
子猫の行動をユーモラスに読んだ俳句もあります。
わが仔猫神父の黒き裾(すそ)に乗る (春)平畑静塔(ひらはた せいとう)
自分の飼っている子猫がなんと、神父様の服カソックの裾に乗ってしまいました。元気いっぱいの子猫なのでしょう。作者は焦りながらも、どこかおもしろがっているような気がしませんか?おそらく神父様も笑って許したはずです。
平畑静塔は、明治38年(1905年)和歌山生まれの俳人です。
冬の季語「炬燵猫」
寒がりの猫は、炬燵が大好きです。そのため、冬の季語になってしまいました。副季語として、「竈(かまど)猫」や「へっつい猫」などがあります。「へっつい」も竈です。「かじけ猫」も副季語ですが、こちらは寒くて震えている猫を表しています。
何もかも知ってをるなり竈(かまど)猫 富安風生(とみやす ふうせい)
竈にいる猫は、家族のことなどすべて知っているのでしょう。どこか深みのある句です。
竈に入るなんて、やけどするのでは?と思うかもしれませんが、昔の猫はよく火を落としたあとの温もりが残る灰で暖をとっていました。「結構毛だらけ、猫灰だらけ」はここからきています。
作者の富安風生は、明治18年(1885年)愛知県生まれの俳人です。
猫が出てくる俳句
季語としてではなく、猫そのものを詠んだ俳句もたくさんあります。その中から3句紹介します。
猫のためはや炬燵して露の宿 松本たかし
この句は「炬燵猫」ではなく「炬燵」そのものが季語です。しかも露の宿とあるので、まだ秋でしょう。冬になっていないのに、猫のために早々と炬燵を出した宿に泊まったのでしょうか。猫が寒くないようにと気遣う宿の主人の温かさが伝わります。
作者は松本たかし。明治39年(1906年)東京神田の能役者の家に生まれた俳人です。病弱のため能を断念し、俳句に専念しました。
美しきふとんに猫と共寝かな 竹下しづの女(たけした しづのじょ)
「美しいふとん」で猫と一緒に寝る喜びとともに、そんな状況をどこか作者が楽しんでいるような気がします。「美しきふとん」はもしかしたら猫のためにわざわざ用意したのかもしれません。竹下しづの女は、明治20年(1887年)生まれの女流俳人です。
拭くあとから猫が泥足つけてくれる 尾崎放哉(おざき ほうさい)
読後、思わず笑ってしまう俳句です。泥を足につけて家に帰ってきた猫。畳を拭いているのに、おかまいなしにあちこちに泥をつけて歩いています。怒りながらも諦めているような、仕方ないなあと思っているような作者の気持ちが伝わりますね。
尾崎放哉は、明治18年(1887年)生まれの俳人。「せきをしてもひとり」など五七五にこだわらない自由律俳句を作った俳人として知られています。
まとめ
たくさんの猫の俳句の中から、ほんの一部を紹介しました。小林一茶は江戸時代、他の作者は明治の生まれですが、今読んでも生き生きとした猫の様子が伝わってくるのが不思議です。
共感を覚える俳句もあったのではないでしょうか。この機会に、他の猫の俳句もぜひ味わってみてください。
猫は日本でどんなふうに暮らしてきた?古典文学に登場する猫たち
前回は、猫の世界史と日本に入ってきた経緯を解説しました。
では、猫は日本でどのように人々と暮らしてきたのでしょうか。平安時代から江戸時代に執筆された古典文学から、猫のエピソードをいくつか紹介します。
平安時代は貴族のペット
文学に「飼い猫」としての記録があるのは平安時代からです。「唐」からやってきた猫は、「唐猫(からねこ)」と呼ばれ、大変貴重な存在でした。そのため貴族しか飼えなかったのです。
日本初の猫の記録は『宇多天皇御記』
宇多天皇(867~931)は父・光孝天皇から黒猫を譲り受けました。その黒猫の記録が『宇多天皇御記(寛平御記)』に綴られているのです。これは日本で最初の飼い猫の記録だといわれています。
「ひまがあったので、猫について綴る」という文から始まる猫日記。「うちの猫の毛色は類まれだ」「歩くときは音も立てない」「どんな猫よりもネズミを早く捕まえる」など、猫について事細かに綴っており、現代の「猫ブログ」のようだと評する人もいるほどです。
宇多天皇は毎日乳粥(ヨーグルトのようなもの)を与え黒猫を大変かわいがっていました。ただ、不思議なことに猫の名前は記されていません。
大の猫好き一条天皇
平安時代の猫好きといえば、一条天皇もよく知られています。自分の猫に「命婦の御許(みょうぶのおとど)」と名付け、溺愛していたようです。「命婦の御許」は記録に残る日本最古の猫の名前といわれています。
「命婦(みょうぶ)」とは、従5位以上の位階(いかい)を持つ女性の役職名です。つまり一条天皇の猫には位があったのですね。
清少納言が執筆した『枕草子』には、一条天皇と命婦の御許が登場します。清少納言は、一条天皇の后・藤原定子に従えていたので間近で猫の様子も見ていたでしょう。
枕草子では次のように記されています。
“ある日、縁側で昼寝をしている命婦の御許を見かけた乳母は、「お行儀が悪い、おうちに入るように」と声をかけます。しかし、命婦の御許は知らんぷり。そこで乳母は、庭にいた犬の翁丸に「命婦の御許を食べておしまい!」と冗談でけしかけます。
ところが翁丸は本当に飛び掛かってしまったため、驚いた命婦の御許は天皇のところに逃げてしまいました。翁丸は一条天皇の怒りを買い、蔵人たちにひどく凝らしめられて姿を消してしまいます。
死んでしまったと思われた翁丸は、ある日変わり果てた姿で宮中に戻るのです。そして「お前は翁丸か?」と問われ、涙を流して「そうだ」と答えるのでした。このエピソードに一条天皇は「犬にもこのような感情があるなんて」と感心します。“
清少納言はどちらかというと犬の翁丸に同情をしているようで、犬派だったかもしれません。そして一条天皇の異常な猫好きに少々あきれているような印象も受けます。
ちなみに、翁丸については「桃の節句のときは梅や桜の枝で飾り立てて歩いた」という記述もあり、それなりにかわいがられていたようです。
『源氏物語』では猫が重要な役割を
紫式部の『源氏物語』にも、非常に重要な役割をする猫が登場します。光源氏の妻・女三宮(おんなさんのみや)と、頭中将・柏木が出会うきっかけを作ったのが、女三宮の飼っている子猫なのです。
ひもにつながれて大切にされている子猫は、他の猫に追いかけれらた際、御簾(みす:すだれのようなもの)にひもを引っかけてしまいます。
すると御簾が開いてしまい、庭で蹴鞠をしていた柏木と部屋の中にいた女三宮が顔を会わせるのです。当時、女性らは姿を隠しながら暮らしていたので、男性に顔を見られるのは大変な出来事でした。
もともと女三宮に心惹かれていた柏木。この事件をきっかけに女三宮と道ならぬ恋に落ちてしまいます。
迷い猫が登場する『更級日記』
平安時代は、ひもにつながれて大切に飼われていた猫ですが、迷い猫になるケースもあったようです。
迷い猫が出てくるのは『更級日記』。更級日記は平安中期に成立した日記文学で、作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)です。
この日記の中で、「夜更けまで本を読んでいたら猫の鳴き声が聞こえた」という一文があります。つまりどこかから迷い猫がやってきたのです。そこに現れた作者の姉は「内緒で飼ってしまおう」といいます。貴重な猫がやってきてラッキーと思ったのでしょうか。
『今昔物語』では猫が拷問に使われるエピソードも
また、平安時代の文学『今昔物語』では「猫嫌いの人」も登場します。「猫恐の大夫(ねこおじのたいふ)」というあだ名がつくほど藤原清簾(ふじわらのきよかど)は「猫が大の苦手」です。
あるとき、清簾は官物(税のようなもの)を出すのをさぼろうとします。それをとがめた大和守・藤原輔公(ふじわらのすけきみ)に、猫がたくさんいる部屋に閉じ込められる「拷問」を受けてしぶしぶ官物を出すというエピソードがあります。
また清簾が通ると、人々がからかって猫を持って追いかけたという話もあるので、もしかしたら猫は町中にいたのかもしれませんね。
ネズミとりのために猫が放し飼いに
平安時代にはひもにつながれて飼われていた猫ですが、織田信長と豊臣秀吉による織豊政権になるとネズミを捕らせるため突然放し飼いになります。慶長7年(1602年)には「猫を放し飼いにせよ」とお触れが出ました。
戦が減り平和になると、だんだん食糧が豊かになります。同時にネズミが増えるため、ネズミを捕ってくれる猫はありがたい存在だったのです。ペットというより、益獣としての役割が大きかったと思われます。
貴重な猫をめぐり洛中では猫を盗む、高値で売買をするなどの行為が増えていました。豊臣政権は、それらを厳しく取り締まっていたようです。
江戸時代はペット化が進む!
江戸時代になっても猫は相変わらずネズミを捕る貴重な存在でした。猫が手に入らない人は、少しでもネズミ捕りの効果が欲しくて猫の絵を飾っていたほどです。そのため、たくさんネズミを捕る優秀な猫は高い値段で取引されていました。
猫が浮世絵などのモチーフに
江戸時代後半になると、庶民も猫を飼うようになります。同時に猫ブームがやってきて、浮世絵やおもちゃ絵などのモチーフになったり俳句や川柳にも詠まれたりと大変な人気ぶりでした。
特に浮世絵画家「歌川国芳」は猫好きで知られ、猫を描いた浮世絵をたくさん残しています。ユニークなのは『おこまの大冒険~朧月猫の草紙』。これは歌川国芳が挿絵を、山東京山(さんとうきょうざん)がストーリーを作った猫の物語です。主人公の猫「おこま」の出産シーンでは、人間がみかん籠を用意して物陰に置くなど優しさを感じます。
猫又
一方で、江戸の人々は「猫又」という化け猫を恐れていました。妖怪猫又は、山の中に住む巨大な化け物として鎌倉時代に徒然草などにすでに登場しています。しかし、江戸時代には、年を取った飼い猫の尾が2本に裂けて化け物になる説が有力になったようです。
「マイペースで群れない」「ツンデレ」な猫に、江戸時代の人は愛情と同時に何らかの恐れも抱いていたのかもしれません。
まとめ
猫は日本に来て以来、ずっと人々を魅了していたとわかります。
猫好きな方なら、宇多天皇や一条天皇の気持ちも共感できるのではないでしょうか。時には古典文学を手に取り、当時の人々の猫への想いに触れるのも楽しいですね。
あなたの猫も化けるかも…!?伝説の妖怪「猫又」をご紹介
みなさんは、猫の妖怪「猫又」の伝説を知っていますか?猫又の伝説はひとつではなく、さまざまな時代、地域で、さまざまな云い伝えが残されています。
猫又は、時に人間に害を及ぼす妖怪として、時に人間に恩返しをする妖怪として描かれています。
今回は、そんな伝説の妖怪「猫又」について、その特徴や現在に残る云い伝えをご紹介します。
猫又とは?
猫又とは、日本各地に云い伝えられている伝承や民話、怪談話に登場する猫の妖怪のことです。
その特徴は地域や云い伝えによって異なりますが、多くの伝説で共通している特徴は、尻尾が2つに分かれていることです。
猫又の伝説は大きく2つに分類されます。1つは「山に住む獣の猫が化けたもの」で、もう1つが「飼い猫が化けたもの」です。それぞれの云い伝えについて、詳しく見ていきましょう。
1.山の猫が化けた猫又
日本で初めて、山奥に住む猫又の伝説が生まれたのは鎌倉時代、または江戸時代だとされています。
山中の猫又の実態については定かではありませんが、多くの文献に「猫又が人間を食い殺した」や「猫又が人間に化けて襲った」などの記述が共通してあり、実際になんらかの獣に襲われたり、暗い山の中で人間が怖い目にあったのは事実かもしれないとも考えられています。
山の名前の由来にも
富山県魚津市の「猫又山」や、福島県会津市の「猫魔ヶ岳」のように、猫又が人間を襲ったという云い伝えが、山の名前の由来となって現在も残っている事例もあります。
2.飼い猫が化けた猫又
山に住む猫だけでなく、飼い猫に関しても多くの猫又伝説が存在します。一般的に、年老いた猫が猫又に化けると考えられています。
一説には、可愛がられていた猫は猫又になって飼い主に恩返しをし、意地悪をされていた猫は猫又になって飼い主を祟ると言われています。
日本で初めて飼い猫の猫又伝説が誕生したのは、鎌倉時代の『古今著聞集』だとされ、山荘で飼われていた「唐猫(中国から渡来した猫)」が、秘蔵の刀を持ち出し、そのまま姿をくらましたと伝えられています。
江戸時代に入ると、飼い猫が年老いて猫又になる説が一般化し、人々は「猫は可愛がってやらないと祟られる」「猫はとし老いるまで飼わない方が良い」などと考えるようになりました。
歌舞伎・浄瑠璃の演目にも
飼い猫が猫又に化けて人間を祟った伝説は、『花嵯峨猫魔稗史(はなのさがねこまたぞうし)』という歌舞伎・浄瑠璃の演目にもなっています。
ここではそのストーリーを、簡単にご紹介します。
江戸時代・佐賀城にて、肥前国佐賀藩の藩主・鍋島光茂と囲碁を打っていた家臣の龍造寺・又七郎は、囲碁の勝負で口論となった挙句、光茂に斬り殺されてしまいます。
又七郎の家系は、過去に鍋島家によって家を乗っ取られた経験がありました。又七郎の母親は、家系の憎しみに加えて息子の又七郎まで斬り殺されてしまったため、鍋島家に対して強い恨みを持ち、苦しみの果てに自害をしました。
自害の際、飼っていた猫に対して「私に代わって、鍋島家に祟っておくれ」と言い残し、その血を舐めた飼い猫は化け猫となり、母親の言葉通り光茂に祟って毎晩のように苦しめました。最後は、光茂の家臣がこの化け猫を退治し、化け猫の祟りは収まりました。
猫の妖怪伝説が多いのはなぜ?
古くから人間に飼われ、癒しの存在として愛されてきた猫ですが、なぜ猫の妖怪の云い伝えが各地で多く残っているのでしょうか。
その理由は、猫特有の特徴や習性にあると考えられています。
- 暗いところで猫の目が大きく光る様子が不気味だから
- ツンデレな性格や気まぐれな性格など、犬よりもミステリアスな雰囲気があるから
- 鋭い爪を持ち、実際に人間を傷つけたから
- 肉食動物で腐臭を嗅ぎ分ける能力を持ち、死者の体に近づく習性があるから
- 一点をじっと見つめる様子や、背中を丸めたり毛を逆立てて威嚇する様子に恐怖心を覚えたから
猫にまつわる伝説は、日本だけでなく中国、ヨーロッパ、アメリカ、エジプトなど、多くの国や地域で云い伝えられています。
一緒に暮らしてきた猫だからこそ、独特の雰囲気や習性を持つ猫に対して何か奇怪なイメージを与えたり、人間の悪い習性を抑制するために「猫が祟る」という伝説が生み出されたのかもしれませんね。
猫又がモチーフのキャラクター
猫又は古くから伝わる伝説の妖怪ですが、現在でもさまざまなキャラクターのモチーフとなっています。
ここでは、そんな猫又がモチーフとなったキャラクターをいくつかご紹介します。
- ジバニャン『妖怪ウォッチ』
- クロ『青の祓魔師』
- 雲母『犬夜叉』
- 二尾/又旅『NARUTO』
- 楓『八犬伝-東方八犬異聞-』
- マタムネ『シャーマンキング』
- 橙『東方project』
- 小判『鬼灯の冷徹』
- 魔獣ネコマタ『女神転生』シリーズ
まとめ
今回は、伝説の猫の妖怪「猫又」について、その特徴や云い伝えをご紹介しました。
古くから日本に伝わる猫又の伝説には、猫又に化けた猫が人間を祟ったり、恩返しをするといったさまざまな云い伝えがあります。
飼い猫が年を取ってから猫又に化けるという説も、江戸時代から広く伝えられてきました。
もしかしたら、あなたが飼っている猫もいつか猫又に化けて現れるかも…!?
江戸時代の犬と人間の関わり。生類憐みの令は現代の動物保護法?
今の時代、犬は私たちの“家族の一員”のような存在ですよね。
昔はどうでしょう?昔の日本では、犬は私たちの“家族の一員”だったのでしょうか?
今回は、江戸時代に焦点を当てて、江戸時代の犬の飼われ方と、当時の飼い主さんについて紹介します。
お金持ちに愛された江戸時代の犬たち
日本原産の犬はもちろんのこと、外国産の犬も珍しがられ、人気がありました。
日本原産の犬
江戸時代は、日本原産の犬のほうが親しまれました。
中でもダントツ人気は、“狆(ちん)”。
日本の歴史の中で、度々登場する、人気者。
江戸時代は、座敷犬、抱き犬として飼われ、貴族に愛されました。
外来犬
江戸時代は、江戸幕府による鎖国の真っただ中。
オランダとの貿易交流が盛んでした。そんな中、当然、犬も貿易の対象でした。
座敷犬や大型犬などが流通していて、それらの犬たちは大名の献上品として、親しまれました。とくに大型犬は、その体格から、猟犬に飼育され、大名行列の際には大変重宝されました。
江戸時代の一般人の犬の飼い方
江戸時代も、犬は人々に寄り添って生活していました。
しかし、当時の犬は、人々を生活を共有しつつも、具体的な飼い主のいない犬が一般的だったそうです。
基本的に江戸時代の犬は外で飼われ、リードなどではつながれていませんでした。犬たちは特定の地域を決め、その領域の中で生活していたのです。ほとんどが野良犬ということです。
一方、江戸時代の人々はと言うと、ご飯の時間になったら、犬たちにえさを用意してあげたり、しつけをしていました。当時の人々は、飼い犬でもない犬のお世話をしてあげていたのです。
つまり、当時の犬の立場は野良犬と飼い犬の中間のような存在であったと思われます。確かに、昭和の初期や平成に入ってからも地方では、野良犬や野良猫にエサをあげる人、多くいましたよね。
動物に優しくしなきゃいけない法律
このように、犬と人間の間には、昔から深い深い絆と信頼があったのです。
では、なぜ江戸時代の人々は、自分たちの飼い犬でもないのに、それほど犬に優しくしていたのでしょうか?
自分たちの飼い犬でないなら、えさも与えないでしょうし、しつけもしませんよね。
実は、そこにはとても面白い時代背景があるのです。
江戸時代には“生類憐れみの令”という法令がありました。これは江戸時代の元禄期、第5代目の将軍徳川綱吉(1646ー1709)によって制定された法令です。
この法律は動物を保護する目的で制定され、動物に対して虐待を犯した者は罰せられるという内容でした。
生類憐れみの令”って何?
生類哀れみの令(しょうるいあわれみのれい)とは、簡単に言ってしまえば、現代版の動物保護法です。
そして、現代の動物保護法の先駆け的な法令と言ってよいでしょう。
動物たちに思いやりを持って接しましょう、というような内容です。
生類憐れみの令には、135ものお触れが含まれています。つまり、135項もの禁止事項がありました。
保護する対象は、犬だけでなく、猫、鳥、馬、豚、牛、魚類、貝類から虫類にまで及びました。
この法令に値する動物は、ペットだけではなく、生き物ほぼ全部が対象だったと言ってよいでしょう。
それらの動物や生き物の殺生や、虐待、捨てることを禁止していました。こういう視点から見ていくと、徳川綱吉ってとても人情(?)深い将軍ですよね。
生類憐れみの令=悪い法律のイメージ?
私たちが歴史の授業で勉強した、“生類憐れみの令”。
歴史上では、“無慈悲な法令”、そして、とんでもない“悪法”として扱われているかと思います。
その理由は、生類憐れみの令を破った者はたいへんな処罰を受けるからです。
処罰の多くは遠流処分(=島流し)でしたが、もっともひどいものだと死刑です。
しかし、生類憐れみの令って本当に悪い法律でしょうか?
先ほども言ったように、生類憐れみの令は、動物保護法です。動物保護法は、人間の私たちが、生き物のために守るべき法律ですよね。
ですから、生類憐れみの令ってそこまで悪い法令ではないんです。今にして考えると、とても先進的な法令だったとは思いませんか?
家畜から家族へ
江戸時代より前の時代、特に戦国時代では犬の殺生が当たり前でした。
しかし、この法令のおかげで、犬にも人間と同等の権利が与えられるようになったと言うことができます。
この出来事をきっかけに、犬=家畜という概念から、犬=“家族の一員”という考えに変わった時代でもあります。
江戸時代は、ここ日本では様々な事が起こり、日本文化がとても発展した時代です。泰平の世が、様々な価値観や芸術を生み出した時代です。
それと同時に、犬にとっても“激アツ”な時代だったのです。
私たちの大好きな犬の権利は守られ、人々に大切に扱われてきました。
この法令が制定されなければ、もしかしたら私たちは、犬をペットとして飼わなかったかもしれませんね。