甚大な被害と数え切れないほどの悲しみを引き起こした第二次世界大戦。その被害者数は5000万~8000万人とも言われています。
人間が作り出した悲劇の影には、多くの動物たちの犠牲もありました。しかし、彼らの苦難や犠牲は一般的にはあまり知られていません。
本稿では、二度と戦争が起こらないことを願いながら、戦争に翻弄された動物たちの物語を紹介します。
この記事の目次
家畜や野犬の毛皮が戦争に利用されていた
古くから動物の毛皮は重要な資源として世界中で利用されていました。
日本も例外ではなく、近代においては、主に軍需産業において馬や牛、豚、羊など、さまざまな動物の毛皮が使用されましたが、国内だけでは生産量が少なく、大部分を他国からの輸入に頼っていました。
そんな中、1937年の日中戦争の勃発とともに、さまざまな物資が国によって管理されるようになっていきます。動物の毛皮についても同様で、1938年には「皮革使用制限規則」と「皮革配給統制規則」が導入され、毛皮の利用が制限されることとなりました。
続いて、水牛や山羊、鹿なども統制の対象となり、国家の管理下での資源となりました。しかしながら、皮革不足の問題は解消されず、1941年には農林省畜産課により野犬の毛皮が統制されるようになりました。
この取り組みは狂犬病予防の側面もあり、野犬の買い上げや捕獲は、自治体や警察の業務として積極的に行われるようになりました。
犬や猫、うさぎなどのペットも供出させられていた
明治初期には、うさぎはペットとして非常に人気がありましたが、日清・日露戦争以降、国からはうさぎを「軍用兎」として飼育することが奨励されました。うさぎは成長が早く、繁殖力も強く、毛皮は兵士の防寒着として、肉は食糧として、利用価値の高さが注目されました。
1944年には国によって「軍兎(ぐんと)飼育の奨励」が始まり、全国の国民学校や旧制中学校の生徒たちによる、うさぎの飼育が始まりました。また、各家庭でも4匹以上のウサギの飼育が推奨されています。しかし、うさぎは国の期待通りには増えず、全国的な皮革不足の中で、各家庭の飼い犬や飼い猫たちが注目されるようになりました。
1944年に通達された「犬原皮増産確保並びに狂犬病根絶対策要綱」により、軍用犬、警察犬、猟犬などの使役犬と国の天然記念物である日本犬以外の飼い犬は、国へ供出することとされました。これにより、全国の自治体では野良か人間に飼われているかに関わらず、国のために犬猫を献上する「献納運動」が本格化していきます。
戦争のために愛するペットを犠牲にしたくないと逃したり、人里離れた場所に隠したりする事例もありましたが、多くの飼い主たちは戦時中特有の相互監視の雰囲気に抗えず、深い悲しみに耐えながら、愛する犬猫を供出しています。
特に犬の場合は、空襲が激化する中で飼い犬が野良化することや、狂犬病の流行が懸念されました。それにより、行政当局は犬の飼い主に対し、ほぼ強制的にペットの犬を供出させ、次々と撲殺や薬殺が行われました。しかし、戦争末期には役所も混乱しており、さまざまな理由で犬猫を収集しながらも管理が追いつかず、一部は毛皮や食肉として利用されましたが、多くは利用されることなく廃棄されたと言われています。
イギリスでも悲劇が起こっていた
動物福祉先進国とされるイギリスでも、戦争の影響で多くのペットが犠牲になりました。
第二次世界大戦が迫った1939年、イギリス政府は開戦前からペットの処遇について検討する委員会を設置し、『動物飼育者に対する助言』というパンフレットを発行しました。その中では、ペットを田舎に疎開させることをすすめた上で、「ペットの世話を他人に頼むことができない場合は、優しさとしてペットを安楽死させることが必要」と提言されていました。
その後、9月にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告すると、最初の4日間だけで推定40万頭もの犬猫が安楽死させられ、1939年だけでも合計75万頭が殺処分されたと推計されています。
ところが、実際にはドイツがフランスに侵攻した1940年5月までの半年以上、イギリス・フランスとドイツの間で陸上戦闘はほとんど行われませんでした。そのため、多くの飼い主たちは、自分たちの早まった判断をひどく後悔したと言われています。
この出来事は、動物愛護精神が根付いていたイギリス人にとって大きなトラウマとなりました。
動物園の悲劇と飼育員たちの抵抗
戦時下の動物園の悲劇を描いた文学作品として、上野動物園を舞台にした『かわいそうなぞう』が有名です。このような悲劇は上野動物園のみならず、全国で起こっていました。
戦争が激化する中で、動物園が空爆に遭い、猛獣などの檻が破壊された場合、動物が逃げ出すことで人々が襲われる危険性が生じます。そのため1943年以降、軍の判断に基づき猛獣たちを殺処分する「戦時猛獣処分」の命令が出されました。
他方、日本の動物園で行われた動物の殺処分は、一種のプロパガンダ的な側面も指摘されています。動物たちの悲劇的な最期を通じて国民に覚悟を促し、市民が親しんだ動物を処分することで怒りの対象を敵国に対する憎しみに置き換える意図があったとされています。
殺処分命令に抵抗した飼育員たち
「戦時猛獣処分」の命令が出されても、多くの動物園の飼育員たちは動物を殺さないように尽力しました。
例えば、熊本動物園では1944年1月以降に危険動物の殺処分が行われましたが、園長をはじめとする飼育員たちは、ニシキヘビやカバ、ゾウなどは危険動物ではないと判断し、殺処分命令に背いていました。
同様に、神戸市立諏訪山動物園でも危険動物の殺処分は行われましたが、オオヤマネコは密かに飼育が続けられました。このオオヤマネコは李王家から贈られた貴重な動物でしたが、終戦前には適切な餌が確保できず、残念ながら死亡してしまいました。
東山動物園も動物を殺させないように粘っていましたが、1944年12月の名古屋空襲の際、国の命令を受けた警官らによって殺処分を迫られ、とうとうトラやクマなどの殺処分を許可してしまいました。
しかし、この出来事に心を痛めた園長は、残っていたゾウの殺処分には頑として首を縦に振らなかったそうです。そのおかげでゾウたちは戦争を生き抜くことができましたが、これには陸軍の配慮もありました。
動物園に駐屯していた陸軍は、ゾウ舎の近くに飼料を積み上げていました。これは表立って提供されることはありませんでしたが、飼料不足に困った飼育員たちが盗めるように、わざと置いておいたのだと言われています。
最後に
無数の命が失われた第二次世界大戦を、私たちは忘れてはなりません。そして、その無数の命の中には、人間によって翻弄された動物たちの命も含まれます。
同時に、戦争により愛する動物を失った人々や必死に守り抜いた人々、そして無念にも自ら手にかけた人々を思うと、命の尊さを改めて考えさせられます。
私たちは、この悲惨な歴史を胸に刻み、戦争の悲劇を繰り返さないよう努力していくべきなのではないでしょうか。