江戸時代の犬と人の関係とは?生類憐みの令は動物保護法の先駆けか

2025.11.27
江戸時代の犬と人の関係とは?生類憐みの令は動物保護法の先駆けか

私たちにとって犬は「家族の一員」として暮らしを共にする存在です。では、江戸時代の人々にとって犬はどのような存在だったのでしょうか。

本記事では、江戸時代の犬と人々との暮らし、そして法令「生類憐みの令」についてご紹介します。

この記事の目次

江戸時代の上流階級と犬の暮らし

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江戸時代の上流階級では、室内で可愛がられる愛玩犬がもてはやされていました。また、外国から渡来した珍しい犬たちも注目を集め、権威や格式を示す象徴として人気を博しました。

お座敷犬だった「狆」

江戸時代に愛玩された犬といえば、日本原産の「狆(ちん)」が知られています。小柄で愛らしい姿を持つ狆は、室内で抱かれる「座敷犬」や「抱き犬」として大名や公家、裕福な商人に珍重されました。

浮世絵にも狆の姿が描かれており、当時の狆が単なる愛玩犬ではなく、上流階級の権威や優雅さを象徴する存在であったことを物語っています。

権威の象徴でもあった「外来犬」

近世に入ると、外国から犬の渡来が盛んになり、ヨーロッパ人が連れてきたグレイハウンド種のような大型の狩猟犬も、大名や上流階級の間で大いに注目を集めました。

これらの外来犬は当時「南蛮犬」や「唐犬」と呼ばれており、珍しく貴重な犬を飼うことは、権威や格式を示すステータスシンボルともなっていました。

江戸時代の一般庶民の犬の飼い方

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上流階級にとって犬は、狆や唐犬に代表されるように権威や格式を示す存在でした。一方、一般庶民と犬たちの暮らしはどうだったのでしょうか。

地域に根付いていた「里犬」

江戸時代の犬の多くは、現代のように明確な飼い主のもとで飼われていたわけではなく、地域に住み着いて人々と共に暮らす存在でした。

これらの犬は「里犬(さといぬ)」と呼ばれ、路地やお堂といった場所をねぐらにし、エサを分けてもらえそうな家々をまわりながら生活していました。

完全に飼い主のいない野良犬とは少し異なり、現代の「地域猫」のような存在だったのです。

飼い主の願いを届けた「おかげ犬」

「一生に一度はお伊勢さん」と言われるほど、江戸時代の日本では伊勢神宮への参拝が大きなブームとなりました。この伊勢参りの際には、病気や高齢などの事情で参詣できない飼い主の代わりに、犬が代参に赴くことがありました。

こうした犬は「おかげ犬」と呼ばれ、道中で犬と出会った人々から食事や世話を受けながら伊勢神宮を目指し、飼い主の願いを届けたといいます。

また、香川県の金刀比羅宮(こんぴらさん)にも同じような逸話が残されています。こちらは「こんぴら狗」と呼ばれ、伊勢参りの「おかげ犬」と並び、江戸時代の庶民文化に深く根付いた存在でした。

犬の飼育書も出版されていた

江戸時代の後期、戯作者の暁鐘成(あかつきのかねなり)は、自身の経験をもとに犬の飼育書『犬狗養蓄傳(いぬくようちくでん)』を執筆し、人気を博しました。

鐘成は生粋の愛犬家で、多くの犬を飼育していたと伝えられています。『犬狗養蓄傳』では、子犬の育て方やエサの与え方から、犬がかかりやすい病気や怪我の手当、さらには寄生虫の駆除法に至るまで、実践的な知識が丁寧に解説されています。

特筆すべきは、この書が当時としては先進的に「飼い主による終生飼育」の重要性を訴えている点です。

狗(いぬ)は則ち人間の小児と心得べし。その養い方悪しくして狂犬病犬と成り、人を咬むがゆえに遠き山野に捨てること不憫ならずや

鐘成はこのように記し、犬を人間の子どものように大切に育てるべきだと説きました。こうした考え方は、現代の動物愛護の理念にも通じる先進的なものでした。

生類憐みの令とは?

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江戸時代の犬の文化といえば、切っても切れない存在が「生類憐みの令」です。

「生類憐みの令」とは、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉によって制定された、動物愛護を目的とする一連の法令の総称です。犬をはじめとする多くの生き物を保護対象とし、殺傷や虐待を禁じました。

しかし、庶民の生活に大きな負担を与えた面もあり、歴史的には「天下の悪法」と評されることも少なくありません。

「天下の悪法」と呼ばれた理由

生類憐みの令が「天下の悪法」と呼ばれるようになった背景には、厳しすぎる規制と処罰がありました。例えば、うたた寝中に体を這いのぼったねずみを傷つけた者が投獄されたり、子犬を捨てた者が市中引き回しのうえ獄門に処されたという逸話が伝えられています。

さらに、犬を手厚く保護した結果、江戸の町には犬があふれ、人々の生活に支障をきたすようになりました。現在の東京都中野には、多数の犬を養育するための「お囲い(犬小屋)」が設けられ、その維持には莫大な資金と労力が費やされました。

こうした現実から、人々の間では「生き物を大事にする」という理念よりも、「生活を圧迫する迷惑な法令」という印象が強まり、やがて悪法として語られるようになったのです。

社会福祉政策としての一面

生類憐みの令といえば、極端な動物愛護ばかりが取り上げられ、「天下の悪法」として語られることが少なくありません。しかし実際には、捨て子を禁じたり病人を守ったりと、人を対象にした条項も含まれていました。

背景には、将軍・徳川綱吉が学んでいた儒学の考え方がありました。儒学では人や生き物を思いやり、社会の弱い立場の人を助けることを大切にします。

そのため、生類憐みの令は動物保護にとどまらず、社会福祉的な側面もあったと考えられるようになり、近年ではその内容が見直されつつあります。

まとめ

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江戸時代の日本の上流階級において、狆や外来犬は威厳や格式を示す象徴でもありました。また、庶民にとっては里犬やおかげ犬のように、身近で生活に根ざした存在でした。

「生類憐みの令」や暁鐘成による『犬狗養蓄傳』などの動物保護・飼育の思想も現れ、犬と人との関わりは多様に発展していったのです。

もしかすると江戸時代は、犬が「家畜」から「人と共に生きる存在」へと歩みを進めた重要な時代だったのかもしれませんね。

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