『今昔物語集』は、12世紀前半ごろ(平安時代末期)に成立したと考えられる日本最大の説話集です。
「今は昔」から始まる説話には、犬や猫、馬、狐など動物も数多く登場します。『今昔物語集』では、人々が動物に対してどういう思いを持っていたかが説話を通して垣間見える点も興味深いところです。
今回は『今昔物語集』の中で、論文「動物説話試論:『古今著聞集』『今昔物語集』所載説話を対象に」をもとに、動物の説話を紹介し考察します。
この記事の目次
『今昔物語集』とは?

『今昔物語集』は日本最大の説話集で、平安時代末期ごろに成立したと考えられています。全31巻に分けられ、説話は1,000以上あります。8巻、18巻、21巻は欠巻となっています。
日本(本朝)以外にも、「天竺(インド)」「震旦(中国)」の説話が入っています。
説話はそれぞれ「今は昔」から始まり「となむ語り伝へ(つたえ)たるとや」で終わる点が特徴です。
騙されたり、喧嘩をしたりと当時の人々の生き様が、短い話の中からも読み取れます。狩りをして生きていた人、養蚕をしていた人など当時の暮らしぶりが垣間見えるのも、『今昔物語集』の面白いところでしょう。
芥川龍之介も『今昔物語集』には思い入れがあったようです。『鼻』『羅生門』『芋粥』は、『今昔物語集』をもとに書かれた小説としても知られています。
『今昔物語集』の人々は動物をどう見ていたのか?

『今昔物語集』の中の動物たちを、当時の人々はどうとらえていたのでしょうか?大阪府立大学名誉教授の田中宗博氏によれば、「人間の動物に対する理解や想像力が、絶えず〈共感的把握〉と〈排他的把握〉との間を揺れ動く」としています。
共感的把握と排他的把握
共感的把握は、動物には恩を感じる心があると感じ、動物が味方であると認識しているといえばわかりやすいでしょう。自分に忠実な犬などは共感的把握の対象です。
一方で排他的把握は、自分を襲ってくる「他者」であり、人からは遠い存在であるということです。
現代の私たちの状況からいえば、家で飼っている犬や猫は共感的把握の対象です。一方で、山で遭遇して突然襲い掛かってくる野生の熊は排他的把握の対象だといえるでしょう。
「犬」に対する人間の揺れ動く心

例えば、山で狩りをして生きている男の話(第二十九巻第三十二話)です。犬への「共感」がつづられています。
優秀な犬がわけもなく吠えた
その男はたくさんの犬を飼って、山に入ってはイノシシやシカを狩って暮らしていました。たくさんの犬の中でも、特に優れた犬がいて男は目をかけていたそうです。
ところがその犬が、ある晩何かに向かって激しく吠えたてているのに気づきます。何に吠えているのかさっぱりわからず、男は困惑します。犬をいさめてもやめようとせず、なんと今度は男に向かって激しく吠えてくるのです。
犬を殺してしまおうと思った男
今にも自分に犬が襲い掛かってくるように見えました。大切にしてきた犬だけれども、あまりの剣幕に「殺してしまおう」とすら思ってしまいます。
とうとう太刀を抜いて犬を脅かしました。大切にしている自分の相棒なのに、「なぜ吠えるのかわからない」と思ったとたん殺そうとしてしまったのです。これが「排他的把握」だと田中氏は解説しています。
大蛇から守ろうとしてくれていた犬
ところが実は犬が吠えていたのは、男の後ろの木から降りてきた大蛇だったと男が気づきます。山で夜を過ごしていた男も他の犬も、大蛇に全く気付いていませんでした。吠えたてた犬は大蛇にくらいつき、男は間一髪助かります。
犬が自分を大蛇から守ってくれたとわかって、男は「ああ、この犬は自分の宝だ、あのとき殺さなくてよかった」と安堵するのでした。これが「共感的把握」なのですね。
この説話のタイトルは「陸奥国(むつのくに)の狗山(いぬやま)の狗(いぬ)、大蛇を咋(く)い殺す語(こと)」です。
「猿」をめぐる二人の女性の対立

まさに「排他的」と「共感的」に二人の人物の態度が分かれる話もあります。第二十九巻第三十五話の説話です。それぞれが家庭を持ちながら貧しい暮らしをしていた二人の女性が、浜で貝を拾っていました。そこで出会った猿とのお話です。
貝に手を挟まれて動けない猿
一人の女性は子どもを背負いながら、もう一人の女性は二歳くらいの女の子を浜で遊ばせながら貝を探していました。そこで、貝に手を挟まれて動けなくなっている猿を見つけます。
子どもを背負った女は、「ちょうどいいタイミングだ、猿を殺して家で焼いて食べよう」と言います。まさに「排他的」ですね。一方の女性は「かわいそうだ」と貝をこじ開けて猿を助けます。こちらは「共感的」です。
助けた猿が子どもを連れ去ってしまう
ところが自由になった猿は浜にいる女の子、つまり助けてくれた女の子どもを抱いて山に走って行ってしまいます。子どもがさらわれたことに、女はパニックになります。
食べてしまおうといった女は「ほら、だから殺しておけばよかったのに。猿は人の恩なんてわからないのよ」と言います。
二人は必死に追いかけますが、猿は子どもを抱いて高い木に登ってしまいました。しかも、この木の上で激しく子どもを泣かせているのです。
すると泣き声を聞きつけた鷲が飛んできて、子どもを狙います。女性は「猿に襲われないとしても、子どもが鷲にさらわれてしまう」と嘆きました。
猿は実は恩返しをしていた
しかし猿は、木の枝で鷲を打ち落とします。ここで猿は子どもを誘拐したのではなく、鷲を引き寄せて打ち落としてくれたのだと女は気づきます。
「もう十分だから、うちの子を返しておくれ」というと、猿は木から降りて、子どもをそっと置くとまた木に登っていったのでした。
実は、鷲の羽根は当時大変貴重なもので、装飾や矢羽に用いられるなど価値があったそうです。結局、猿は五羽も鷲を打ち落としてくれたので、羽根を売って生活の糧にできました。
どちらもハッピーエンド
読んでいてホッとするのは先ほどの犬の話とこの猿の話、どちらもハッピーエンドである点です。「動物は人に恩を感じて生きている」または「そうであってほしい」という思いがあったのではとも筆者は読み取りました。
物語の前半は、あえてネガティブな内容を持ってきて、読者をハラハラさせるのも印象的です。特に最初の犬の話は、男の心の中がつづられているため、光景を読者も見ているような臨場感もあります。
後半で動物の本当の意図がわかって、読者は安堵します。当時の人々は「ああ、動物にも恩を感じる心があるのだ」と納得したのかもしれません。
白い犬の恩返しが三河の名産糸に

続いて、本朝(日本)の説話の中から、筆者がチョイスした犬が出てくる話をもう2つご紹介します。ここでも動物に対して、共感的把握や排他的把握があるかも考えながら読んでみると面白いですよ。
「参河(みかわ:現在の愛知県三河)の国に犬頭(いぬがしら)の糸を始むる語(こと)」(巻第二十六第十一)というお話です。
以前も別の記事で紹介したことがあります。詳しくはこちらの記事をご覧ください。
このお話は白い犬がカギを握っています。
蚕がすべて死んで夫も去っていった不幸な本妻
三河の国に、妻を二人持つ郡司がいました。妻は二人とも養蚕をしていました。本妻の蚕がなぜかすべて死んでしまったことで、夫は気味悪がって寄り付かなくなり、やがて家来もいなくなってしまいます。本妻は一人、細々と暮らすことになりました。
ある日、本妻は桑の木に蚕が一匹いるのを見つけます。本妻はこの一匹を大変大切に飼っていました。ところが、本妻の飼っている白い犬が大切な蚕を食べてしまいます。
本妻はショックですが「犬を殺すわけにもいかない」とも思いつつ、わが身の不幸を思って犬に向かって泣きました。
仏神となって犬が本妻を助けた
さめざめと泣いていると、犬は突然くしゃみをします。くしゃみをした鼻の穴から白い糸が飛び出してきたので、本妻は不思議に思い引き出してみました。
糸はどんどんと出てくるので、巻き取っていきました。糸は美しい白色で光沢があります。4〜5千両も出てきたところで糸は途切れます。4千両は約150kg、5千両は約188kgと大変な量です。
糸が途切れたとたん、犬はそのまま死んでしまいました。本妻は「仏神が犬になって私を助けてくれた」と畑にある桑の木の根元に犬を埋めたのです。
戻ってきた夫と蚕
久しぶりに郡司が様子を見に立ち寄ったところで、本妻が美しい糸を持て余しているのを発見します。郡司のもう一人の新しい妻の糸は黒く出来が悪かったのですが、本妻が仏神のご加護をこうむった様子を見て後悔します。
犬を埋めた桑の木では、蚕がたくさん繭を作っていました。繭から取れる糸は大変すばらしく、朝廷に献上することになったのです。糸の名は「犬頭」といい、なんと天皇のお召し物を作るために織られるようになったのです。
愛情と白い犬の不思議な能力
大切な蚕を食べられても、犬を殺さず自分の不幸を嘆くのは犬にも愛情があったからこそと推測できます。蚕を食べてしまっても、本妻にとって大切な犬なのでしょう。
夫も家来も去ったけれど、犬は一緒にいてくれたはずです。そこが共感的把握であるといえるのでは、と筆者は考えます。
一方で、犬の鼻の穴から白い糸が出てくるのは、あまりにも非現実的です。白い犬という点もポイントで、特別な存在と見ていたとも考えられます。
実際、日本人は「白い犬」は不思議な力を持っている、つまり異能の存在であるとみていた説もあります。白い犬は仏神であり、大切にすれば恩恵があるという思いがあったのかもしれません。
物置から現れた黒い角の生えた怪物

「中納言紀長谷雄(ちゅうなごんきのはせお)の家に狗(いぬ)を顕(あら)わす語(こと)」(巻第二十八第二十九)は中納言紀長谷雄という学者のお話です。
とても優れた学者でしたが、陰陽道には詳しくありませんでした。陰陽道は、中国の陰陽五行説に基づいて天文などの知識を使って吉凶などを占う方術です。
犬のおしっこと陰陽師の占い
ある日、紀長谷雄の家に犬がやってきて塀を乗り越えて敷地でおしっこをしました。これを紀長谷雄は気にして、陰陽師に吉凶を占わせました。「嫌だな」という排他的把握と推測できますね。
その占い結果は「家の中に鬼が出る。しかし人に危害を加えたりたたりがあったりはしない」でした。
結局、鬼が出るとされた日は「物忌みに入ったほうがよい」ということになったのです。物忌みは、凶事や不吉なことを避けるために謹慎することをさします。
物忌みをすっかり忘れていた紀長谷雄
ところが紀長谷雄は、すっかり物忌みのことを忘れてしまいます。その日、家に学生たちを招いて漢詩文を作っていたところ、物置の中から恐ろしいうなり声が聞こえてきました。
そのうなり声を聞いた一同は「なんだなんだ」と怖がります。しかも物置の戸を押しあけて「何か」が出てこようとしていました。
それは、60センチほどの大きさで、体は白く足が4本、頭には黒い角が生え、頬も黒い生き物です。これは鬼ではないかと一同は震えあがりました。「鬼が出る」と陰陽師の言ったとおりのことが起きてしまったのです。
鬼だと思っていたのは?
一同の中に冷静で豪胆な男性がおり、鬼の頭をけってみました。すると頭から黒いものが抜けて、白い犬が「きゃん」と鳴いて立っています。実は黒いものは「半挿だらい(注ぎ口がある急須のようないれもの)」でした。
犬は、半挿だらいに頭を突っ込んでしまい抜けなくなっていたのです。つまり注ぎ口が角のようになって、四つ足の鬼に見えたのですね。真相がわかって一同はほっとして、大笑いしたというお話です。
そして陰陽師の占いについても「たしかに鬼が出た。しかも人に危害を与えたり、たたったりしなかった」とほめたたえました。一方で、「そもそも中納言が物忌みを忘れたのも情けないことだ」と非難もされたそうです。
ここでも白い犬が出てきます。特に大きな活躍をするわけでもありません。半挿だらいをかぶって出てきたというちょっとドジな犬を叱るわけでもなく、笑ってすませたところに「共感的把握」があると筆者は感じています。
まとめ

今回は、田中宗博「動物説話試論:『古今著聞集』『今昔物語集』所載説話を対象に」を参考に、『今昔物語集』の中に出てくる犬の例を挙げて、当時の人の動物観を紹介しました。
「動物が恩を感じる生き物であってほしい、きっとそうだ」という思いと、「動物には恩などわかるまい」という思い、その間で揺れ動く人々の思いも伝わってきたのではないでしょうか。
特に、大事にしている犬を一瞬でも殺してしまおうかと太刀まで出したものの、本当は自分を守ろうとしたと気づき「殺さなくてよかった」と安堵する男の気持ちの揺れ、伝わってきますね。昔も今も、動物への愛と畏れは変わらないようにも感じます。
説話は一つ一つが短く、現代文訳もあります。一度手に取って読んでみてください。

































